昭和の初め、志賀高原には草津街道と呼ばれる街道が長野から群馬草津へとつながり、
今の発哺や熊の湯にしか宿が無い状況で、志賀高原の開拓は無謀と考えられていました。
信義は、志賀高原の自然が将来もっている可能性を熱く語り、木戸池の畔に『ヒュッテ』建築計画を志賀高原の自治組織に提案し、承認されました。そして、『志賀ヒュッテ』が建設されました。
木戸池温泉ホテルは、志賀高原のパイオニアとも呼ばれる当館初代主人・小林信義が80余年前に、草津街道の山にあった場所で始めました。ここを1人で開拓して、宿を建てて温泉を掘り起こし、ボート乗り場を作り、ワカサギ養殖とワカサギ釣りのレクリエーションの場を興しました。また、横手山渋峠にスキー場を開いたのも彼の功績でした。そして、今、志賀高原は冬のスキーレジャーの代名詞となり、グリーンシーズンのトレッキングや合宿の聖地にもなっております。

飲料水を求め、遠く硯川の水源地から木やトタンの水溝を自力で引いて作り続け、その距離は、3,272メートルにも達しました。
昭和の初め、当館初代主人が草津街道を旅人たちの宿泊施設として、『志賀ヒュッテ』として創業しましたが、旅人たちはさらに奥手にある熊の湯温泉へと通り過ぎていきました。その状況を打破する為に、主人が、戦中~戦後、幾度となく掘削した結果、2つの源泉を掘り当てた逸話がある温泉、それが、木戸池温泉です。
戦中も、温泉探しを継続していた信義は、その間、つぎのプロジェクトとして、十数隻のボートを購入して、木戸池に浮かべ、今の木戸池貸しボートを創業。さらに、木戸池でのワカサギ釣りレジャーを見込んで、諏訪湖から五十万粒のワカサギの卵を木戸池に放流、養殖を始めました。